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zoom RSS 『新復興論』。

<<   作成日時 : 2019/04/04 00:38   >>

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まじめな問題に対しふまじめに、ふまじめをまじめに考えましょう、といったようなスタンスで福島の復興について論じた一冊。



浜通り地域を、

「首都圏のバックヤード」

として自己評価し、そこからの脱却を目指す

「いわき潮目文化共創都市づくり」

を提唱し、活動をしている筆者が、

福島の被災者の視点から「復興」について、批判的に論じています。

一部感情的になっているのかなと思われる部分もありますが、

大宗は冷静な議論が綴られています。

例えば、

「何かしらの事業を続けていくためには利益を生み出していく必要がある。しかし、利益を出さなくても「復興」さえ掲げれば金銭的、人的な支援が受けられてしまう。それが地域の自立を妨げる障害になっている面がある。「復興の利権化」や「支援の受け慣れ」といってもいいかもしれない。もっとも、これは被災地に限らず、助成金絡みの地方活性化プロジェクトなどに共通する問題かもしれない。助成金ありきの地域づくりになってしまうのだ。」(pp.40-41)

とか、

「東日本大震災で被災した東北の港町。その多くは、震災前から衰退が始まっていた。皆、口を揃えて「かつての賑わいを取り戻したい」と言う。しかしその「かつて」とはいつのなのか。(中略)どう冷静に見積もっても、被災地は、これまで以上に急速に衰えていくか、あるいは震災を原動力とし、アクロバティックにまちづくりを展開して生き残りを模索するか、濃淡はあれど、そのどちらかの道を選ぶほかないように見える。コレまでのように「現状維持を狙いつつまったりと衰えていく」なんてことは望めないのだ。」(p.42)

あたりなんかは、被災者サイドからは中々言えない内容です。

また、

「福島にまつわる話は容易に二元論化していく。中庸がなくなり、「どちらか」の立場を表明しなければならなくなってしまいがちだった。コップの中で交わされる議論は高度化し、関心のある人だけが激烈な議論を繰り返して摩耗している、というふうにも見える。中間にいる人たちは、エスカレートした議論についていけなくなし、最後には「めんどくさそう」「もう関わらないでおこう」と避けてしまう。このように中庸が抜け落ち、極端な意見やデマだけが残ってしまう状態を「風評の固定化」や「記憶の風化」と呼ぶのではないだろうか。だから私は、色々な方々が福島を語って良いと、常に中間層を意識するような発言を心がけてきた。」(pp.54-55)

なんかは、政治的・社会的な状況を良く表していますし

「多くの識者が指摘するように、正しい情報を発信するというのは大前提だろう。ただ、これだけに囚われると硬直化してしまう。だから「正しい情報の発信」は自治体に頑張ってもらうことにしよう。自治体が「おいしい」や「楽しい」を連発すると官製PRになり、かえって胡散臭くなる。自治体は、コツコツと図った数値を公表し、できることなら在京メディアなどでも取りあげてもらえるよう働きかけたり、生産者が首都圏などで商品をアピールする「場」を提供することに注力して欲しい。
 正しい情報だけでは人は動かない。人の心が動くのは「おいしい」や「面白い」や「楽しい」と相場が決まっている。これをやるのは私たちのほうだ。」(p.58)

風評・リス込み対策についてのヒントもあります。

他方で、考え方を強制的に変えることはできないので、それに対する寛容な精神の持ち方が重要ということも忘れません。

「「福島ではガンが続発!」というようなデマ情報には毅然として対応しつつ、「福島県産を選ばない」という選択の自由は担保されるべきだろう。」(p.61)

「必要なのは放射線の知識ではない。食についての基本的な情報を粘り強く熱心に伝えていくことである。あくまで職の魅力や基本的な情報を伝える中で、補足的に、そこはかとなく放射能の情報を付け加えていく。そうすれば、フラットな状態で福島の食に興味を持ってもらえ、結果的に放射線に対するぼんやりとした不安も取り除かれるのではないだろうか。」(p.90)

また、被災者支援を考える際にも、いくつかのヒントが。

「私は、復興するというのは「被災者でなくなる」ことでもあると考えている。だが、実際には、外側からも内側からも被災者でいることを求められ、求めてしまう。復興を叫ぶほどに被災者という立場を固定してしまうわけだ。さらに、復興は誰もその中身を問わない。復興というと何かいいことをしているかのように感じてしまう。復興を叫ぶほど個別の課題の存在が見えにくくなり、解決をかえって遅らせてしまうことにもなる。それは果たして復興なのか。」(p.98)

だんだん饒舌になってきます。

「故郷の復興を願わない人はいない。しかし、そうであるがゆえに、復興を「卒業」しなければならないのではないだろうか。いや、復興政策は個人の意思とは関係なく続いていくだろうから、卒業することは難しい。だったら復興をドロップアウトしてしまおう。復興に寄りかかって、いつまでも「被災者」でいるわけにはいかないし、復興なんていうなんとでも取れる言葉に寄りかかわるわけにもいかない。クソ真面目なことしかできない復興なんて中退してしまえばいい!」(p.100)

賠償金について筆者の認識。良くある話ですが、本書では根拠までは明示されていません。

「極端な言い方になるが、アイデアがないと、自社の商品が売れない理由を風評被害に求めてしまったり、売り上げ減を賠償によって補填するようになってしまう。賠償金が打ち切られるのを防ぐために、震災前の売り上げを超えないように数字を操作する会社も少なくないという。具体的な事件となって表沙汰になったわけではない。ただ、そのような話を裏で言われるような状況では、魅力的な産品など生まれるはずがない。」(p.152)

産業・生業支援については、東日本大震災にとどまらず全国的な課題ですが、実体験に近い言葉だけに説得力があります。。

「もちろん、助成金があったことで一歩踏み込んだチャレンジが軌道に乗った事業もあるだろう。だから、一概に復興予算や助成金を悪だと言うつもりはない。それは必要なものだ。ただ、私は、助成金が活躍するのをあまり見ることができなかった。身銭を切らないので本気度が高まらず、事業自体がおざなりになってしまう。そして「助成金をとるための事業」を作り出してしまい、結果的に助成金への依存度を上げてしまう。私が個人的に体験してきたのは、むしろそのような場面だった。復興予算や助成金に甘えているうちに、失われたものがかなりあったと私は感じている。
 もともと下請け気質が強い土地にわいてきた助成金や復興予算。それは、福島の発展を進めたのだろうか。それとも衰退のスピードを速めただけだったのだろうか。もう少し時が立たないとわからないかもしれない.だから検証が必要だ。悪を懲らしめろというのではない。
「震災後だったししょうがないじゃんん」と言ってしまっては、これから再び起こるかもしれない災害の教訓にできない。助成金や補助金の問題は、全国の地方に共通する話題でもある。折に触れて検証し、その結果を共有しながら、地域作りに役立てて欲しいと思う。」(pp.163-164)


東電賠償スキームの問題点は多々ありますが、被災者視線で行くと単純な線引きの中と外で大きく違ってくるモノです。それが社会的公正に照らして道家、波議論が必要ですが…。

「問題は、賠償が事業の自立支援ではなく生活補償になっていることだろう。今後廃業を予定している人と、事業を継続・拡大したい人が、同じシステムで補償されていることに大きな問題があると思う。」(p.167)

「助成金の魔法は怖い。助成金の申請や行政との協働ばかりを続けていると、いつの間にか行政のニーズを先取りしてしまうようになる。地元の「助成金錬金術士」の人たちの言葉を聞いていると、彼らは鑑賞者やお客に良い者を届けたいのではなく、助成金を取るための規格を作りたいのだ、と感じてしまう。以前は意気揚々とプロジェクトを進めていたのに、いつの間にか、行政の人間のようにリスクを過剰に取り除き、当たり障りのない役所文学で企画書を書き、立ち居振る舞いまで行政の人のようになってしまった人たちをよく知っている。」(p.333)

色々と被災地の実態を日常的に感じ取りながらの提言は中々読み応えがありました。

ただ、

この筆者を持ってしても、どうしても感情的にならざるをえない部分があるというのが現実なんだな、と言うことも改めて思い知りました。





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